刺激と執着と煩悩は、繋がりやすい

年度が明けて、残業続きの忙しい日々が続きます。今日は、無理に仕事を切り上げて(それでも遅くまで残業して)、サウナに行きました。いつものようにサウナで瞑想し、自分を見つめながらダラダラダラダラと汗を流しました。次から次へと頭の中に湧き出てくる妄想を眺めたり、時折、なりたい自分と今の自分を左手と右手の上に思い描いたりしているといつの間にか24分が過ぎていました。12分時計2周分です。区切りよいところまで汗を流そうとここから耐えに耐え抜いて、30分間サウナの中で過ごしました。僕の同僚のサウナーの中には、30分サウナに居られる人はいません。達成感とすっきり感が得られました。

「人間は、刺激を求めている」

外気浴をしながら思ったことは、「人間って、刺激を欲しているのだろうな。」ということです。小池龍之介さんの著書はたくさん読んでいます。他の仏教や禅についての本も僕は関心があり、手に取ることが多いです。それらの本にも、刺激について同様のことが書かれていて、それらを外気浴中に思い出しただけのことです。でも、最近、自分を見つめ直し、振り返る機会はなかったなぁと改めて思います。

仕事に追われる忙しい毎日の中で、「サウナという刺激を得たい。」「サウナの後は、コーラのような炭酸飲料が飲みたい。(炭酸と砂糖の甘みという刺激を得たい。)」そんな刺激を僕は欲しているのです。「サウナに長い時間いることで、同僚に自慢したい。(優越感という刺激を得たい。」「たくさんの仕事をこなすことで得られる充実感という刺激が欲しい。あわよくば、周囲から褒められ認められるという刺激を得たい。」「おなかいっぱい食べたい。(満腹感という刺激を得たい。」仕事さえも、食事さえも刺激を得たいという気持ちの現れなのではないか?そして僕は、刺激が欲しいと思ったらそれに執着してしまい、それが大きな負の感情を生んでしまうこともあるようです。サウナであと6分耐えられず外に出たら、満足感は得られず失敗したというジクジクした思いが残ることでしょう。残業しても仕事が思ったようにこなせなかったら、イライラするに違いありません。「刺激が欲しい。」と思うと、それは執着する心と繋がりやすい。それは感情の大きな揺れを作る。そう思いました。きっとそれが仏教のいう煩悩なのでしょう。

刺激を目的にして、過程を楽しむ心の余裕をもちたい

生きていれば何かしら刺激を欲します。外国に行ってみたいな、あの車を運転してみたいなぁ、○○軒のラーメンうまいらしいなぁ。当然のことのように思います。刺激を目的にするのはきっとプラスなのでしょう。ただ、思うようにいった時といかなかった時の振れ幅が大きそうです。刺激を目的にするとともに、それを得られるまでの過程を楽しめるのが一番かなぁと思います。

今の仕事を、サウナのように苦行として続けるのがいいのかどうか、そこに達成感もあるかもしれないけれど、仕事上の失敗を含めて楽しめるのだろうか。落ち込む結果にならないだろうか。

刺激…を通して色々なことを考えた時間でした。

今日も読んでいただきありがとうございます。良い1日になりますように。

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