モノに執着することは、苦しむことにつながります。モノを得た時は、嬉しい気持ちになるかもしれませんが「失いたくない。」「自慢したい。」「壊さないようにケースを購入しよう。」「汚くなってしまったなぁ。次の新しいものが欲しいなぁ。」などなど、次々と欲や願望が溢れます。そして、得たいという欲望と得られない時の不満にとらわれてしまいます。結局は苦しみを招くのです。苦しみから逃れるために、別のものを欲し、また苦しむ。苦しみが苦しみを招きます。
ただ、「今週は大きなプロジェクトを頑張ったから、美味しいものを食べたいなぁ。」と欲して、食べられた時の幸せな気持ちは、言葉では言い表せない充実感があります。食材を作ってくれた農家の方、生き物の命、そして調理して提供してくれた皆さんへの感謝の気持ちも自然に湧き上がってきます。自分が欲しかったものを手に入れた時の喜びもまた生きる喜びといいますか、筆舌しがたいものがあります。
人は、1日に何万ものことを考える
ジョギング中やサウナで瞑想中に感じることですが、実に僕は普段から様々な妄想が次から次へと浮かんできます。○○に言われたグサッときた言葉についてぐるぐると頭の中を回ったり、翌週の大きな仕事の段取りを思い出したり、明日までにやらなければならない事務処理、部屋の片付けのことや家賃の支払いのこと、などとりとめもなく浮かんできます。一説には、人間は、1日に何万もの事柄について考えるのだそうです。
視界に入る刺激を減らす
ジョギングが好きな理由の一つとして、妄想が整理される感覚になることがあります。体を走ることに使っているので、頭に浮かぶ妄想に比較的とらわれずに、見つめることができるのです。「あら、こんなことを考えている。」と気付きやすい。サウナでも同じことが言えます。体の感覚が「熱い。」に縛られているので、頭に浮かぶ妄想を客観的に捉えやすい。
ミニマリストとして
体の機能や感覚を別の何かに使っている時のように、五感から刺激を得ることを減らすようにすれば、そこから導かれる欲は減ることでしょう。眼に映るものを少なくすれば、そこから導かれる欲望は、減ることでしょう。
数十年生きてきて、仕事をする上で必要なものや生きていく上でなくてはならない最小限のものは、だんだんわかってきたつもりです。ものを減らして、環境をシンプルにすることで、刺激によって苦しむことなく平穏に生きられることを実感しています。歳をとると経験から、苦しさを回避することができるようになるのでしょうか。苦しさに対応し、耐えることが難しくなるのかもしれません。
マキシマリストとして
ただ、まだ好きなものに囲まれていることで安心する気持ちもどこかに残っているのも確かです。僕は、文房具。特に筆記具は、身近にないと不安になります。お気に入りのボールペンを何本も購入し、自宅や書斎、職場に置いています。
若い頃は、本に囲まれた生活に憧れ、書棚も設置しました。若者が自分の好きなものに囲まれていることで、安心する気持ちはわかるつもりです。時折テレビなどで見かける自分が好きなものにあふれた部屋は、ある意味すごく魅力的に僕の目に移ります。趣味の部屋というか、その人の世界観が部屋に現れているように思います。若いうちは、苦しみへの耐性もあり、苦しみよりもモノを得ることの満足感の方が大きいのかもしれません。
自分を見つめる時間をつくること
「本来無一物」金嶽宗信著を読みました。「貢献という動機に立って、できることをして、暮らしが立って、ほんの小さな喜びや楽しい出来事が、日々に見つかったら、もうそれで十分ではありませんか。」という言葉が心に残ります。
歳をとったから、この言葉がしみてくるのでしょうか。
瞑想やマインドフルネスのように(違いはよくわかりませんが)、若い頃から自分の思考を見つめる時間を確保する方法を知っていたらよかったなぁと思うことがあります。若い頃はものに囲まれて、歳をとるとだんだん要らないモノに囲まれていることにストレスを感じる。という歳のとり方よりも、自分を見つめて、何が自分の幸せなのかを感じ取り考えることができるといいのではないかなぁと感じた今日この頃でした。
読んでいただきありがとうございます。良い1日になりますように。